赤いレンガ
斎藤茂太
昭和57年(1982年) 医家芸術 掲載
今年は父の生誕百年ということで、山形を中心にいろいろの行事が行われた。ありがたいことである。また『茂吉展』が東京の小田急百貨店で開催され、近いうちに関西でも開かれることになっている。
父は15歳で上京し、当時祖父が開業していた浅草の三筋町にやって来た。途中、仙台の旅館で『もなか』という菓子を生まれてはじめて食べた。世の中にこんなにうまいものがあるのかと思った。夜に入って上野駅に着いた。こんなに明るい夜があるものだろうかと思った。
祖父の紀一は子供がみんな女であったので跡継ぎのことを考えて養子にするにふさわしい少年を探していた。茂吉の実家の隣の宝泉寺という寺の和尚隆応が茂吉の成績のいいのに目をつけ、紀一に話を持ちこんだのがみのって茂吉の上京となったのだ。しかし、紀一にしてみれば、最初から養子にするつもりはなく、医業の後継者であるから、茂吉が将来、医師になるメドがついたら養子にしよう、それまで勉強させながら様子をみよう、くらいの気持ちであったと思う。
茂吉は三男であるから、職業の選択は自由であった。子どもの頃の志望は画家であり、また僧侶であった。それが運命が狂って、医師への道を強制されたのであるから、とまどいと、大きな責務が双肩にかかるのを感じたであろう。
茂吉はムラサキ(醤油)、オカチン(餅)、ハバカリ(雪隠)、などと言う東京語を教わりながら、やがて開成中学へ通うようになった。茂吉が上京する直前に二女W子が生まれた。つまり私の母である。長女は幼くして逝ったからW子は事実上長女として育てられた。
紀一の経営する浅草医院は大繁昌で、次第に手狭になったので、その打開策として、比較的近い神田和泉町一番地にべつに東都病院というのをつくった。
この東都病院跡に後年坪井矩一郎と言う内科の先生が開業されていて、私が初めてお訪ねしたのは昭和四十五年二月のことだった。門柱とそれにつづく塀があった。上に塗られたモルタルがところどころはがれて、中から赤いレンガがのぞいていた。赤レンガを見ると私は妙に興奮するのである。赤いレンガと祖父のイメージが重なり合うからだ。明治三十六年に青山南町に紀一がつくった青山脳病院の本館も塀も浴場もすべて赤レンガだったからだ。その青山の病院の中で生まれた私は毎日赤レンガをみながら育ったわけである。
その坪井医院の赤レンガは明らかに明治三十年の赤レンガだった。坪井先生の言によると、紀一が青山に移転したあとは、元東大教授で立派なヒゲをもった外科の近藤次繁先生が入り、次に浜町の肛門科の山本八洲夫先生の父君の山本八治先生が入り、次で大正十年に坪井先生の父君の坪井秀満先生が大久保から引っ越して来られて内科を開業した。
大正十二年の関東大震災には幸いに焼けのこったが、昭和二十年三月の空襲では遂に焼けてしまった。門柱わきに立っている一本のイチョウは、火でこげたのを戦後近所の人がタキギにするために切ってしまったのがまた芽をふき出したのだという。その赤レンガは火に焼かれる前から七十年もの間しぶとく生きつづけてきたことに私は大きな感慨を覚えた。さらに神田区が千代田区にかわっただけで、『神田和泉町一番地』が今も生きつづけていることにも私は感慨を覚えた。
帰りしなに私は坪井先生に、いつの日か、その塀を改築なさるときは、赤レンガをぜひいただきたいと申し上げた。
坪井矩一郎先生が亡くなられたのは昭和五十五年六月十八日のことだ。私は弔問に行きご長男の秀一先生に初めてお目にかかった。そして塀が次第に傾いて来て、倒れる危険が出てきたというしらせを受けたのは昨年春のことである。私は早速出入りの工務店に命じて、塀を撤去し、赤レンガをいただいてきた。その赤レンガはいま東京都府中市の私の精神病院の庭の一角に保存してある。いずれ、それを使って祖父と父の思い出のコーナーを作るつもりである。
さきに書いたように紀一は明治三十五年十二月にドイツ留学から帰って翌年青山に脳病院をつくった。茂吉はその時、一高で、紀一と同じ船で帰国した英語教授夏目漱石の教えを受けていた。そして明治三十八年九月に東京帝国大学医科大学に入学した。同じ年の七月に茂吉はW子のムコ養子として入籍している。W子は十一歳であった。
大正三年二人は結婚。大正五年に私が生まれた。茂吉は大正六年から大正十年ヨーロッパに留学するまで長崎医専の教授をつとめた。
大正十三年の十二月の末に青山の病院が焼けた。父母は留学から焼け跡に帰って来た。茂吉はまだ院長でなかったが病院再建に経済的、精神的に苦労した。青山に小病院と自宅をのこし、大きい精神病院は世田谷区【当時は松原村】に再建した。昭和二年に茂吉は院長に就き、翌年紀一が没した。
昭和二十年五月空襲でわが家はまたも灰になった。戦後私の代になって拠点を新宿と府中に移した。
十年ほど前、かつての青山の土地にマンションが建つという話をきいた。その土地の下には青山脳病院の土台である赤レンガがのこっているはずである。私は建築現場に出向き、現場の責任者に赤レンガをもらいたいと申し入れた。その人は快く引き受けてくれ、赤レンガが出てきたらおしらせすると言った。
しかし、いつまで経ってもしらせはなく、建築はどんどん進行しているようであった。私は不安になって再び建築現場に出かけた。そこで、現場責任者が急死したという話をきいた。後任者は私の申し入れのことを全く知らず、赤レンガはすでにどこかへ捨て去られていた。
その故に、神田の赤レンガは祖父と父の想い出ののこる物としていよいよだいじな存在になった。
今年は父の生誕百年としてあらためて父を意識するが、同時にその赤レンガをいとおしく思う気持ちもまたとくに強いのである。
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